Street Snap Color - 東京残雪地帯 「銀塩VSデジタル」の争いほど馬鹿らしいものはない
2018年 09月 19日
学生の頃の一時期、三脚担いでの夜間街頭スナップに凝っていた。ほとんど白黒フィルムで、ちゃんとカラーの夜景を撮るようになったのはデジタル時代になってからだ。フィルム時代の長時間露光は、経験とカンが便りで、腹時計で「1、2、3、4・・・」と露光時間を計っていた。不安なので段階露光もするもんだから、金がかかるカラーフィルムを使うのがもったいなかったというのもある。とにもかくも肉眼で見る光景が浄化される白黒の世界に、さらに長時間露光による異世界が浮かび上がるのが楽しかったのだと思う。
翻って、初めてデジタル一眼レフを手にした時に僕が真っ先に反応したのが、「夜でも簡単に撮れる」ことだった。新聞社の写真部にいた当時、会社支給のニコンD1を持ち帰っては夜の街をほっつき歩き、露出をモニターで確認しながらISO800あたりで手持ち撮影を繰り返したものだ。あまりに楽に夜景が撮れるもんだから、逆に三脚に据えてじっくり撮ることが少なくなったくらいだ。
この冬、そんなことを思い出しながら、その当時買った最初期の安いカーボン三脚を引っ張り出して、残雪残る出張先の夜の街を2時間ばかり歩いた。
僕は、APS-CのNEXシリーズからソニーのミラーレスを使っているが、フルサイズのα7も3世代目になって、7RIIIを手にしてからはプライベートではほとんどデジタル一眼レフを使わなくなった(今回掲載している写真を撮った半年後の今はα9を追加して仕事もミラーレスオンリーになった)。シャッターを切る前に露出・被写界深度が見えているのは、腹時計で長時間露光をしていた時代から見ればまさに革命である。写真の本質は技術ではなく感性だと考えているので、技術的な面にはなるべくエネルギーを削ぎたくない。技術はもちろん大事だし、技術の裏付けがなければ感性の表現も表面的なものになってしまうことは十分承知している。それでもやはり、写真家は技術者ではなく、表現者だと声を大にして言いたい。
デジタルでカラーでミラーレスで、と言うといかにもデジタルガジェット好きの最新機材原理主義者のようだが、このブログの他の投稿を見てもらえば分かるように、白黒写真はもっぱらフィルムで撮っている。ただし、いわゆるクラシックカメラマニアでもなく、使っている銀塩機材はほとんどが自分が生まれた1970年代以降の新しいクラシックカメラだ。さらに、出力までのことを言えば、フィルムを自家現像した後、フィルムスキャナーとインクジェットプリンターで出力するアナログとデジタルのハイブリッドだ。要は、「銀塩VSデジタル」などという古臭くて野暮な議論には全く興味がなくて、結果的にそうなったという話でしかない。僕の場合は、「結果」を追求したらいつの間にか「カラーはデジタル、白黒はフィルム」に落ち着いただけである。
どちらもちゃんとやってみれば分かるが、アナログの暗室作業が難しくて高尚で、デジタル暗室がなんでも自動的にMacがやってくれるお手軽なものだなんて言うとバチがあたる。そんなことは割と常識だと思っていたが、特にこの国の中高年層には、銀塩>デジタルと言ってはばからない保守的な層(本人たちは資本主義経済の産物である最新デジタル技術を否定しているという点で革新的だと思っているようだ)が多くてウンザリする。いや、確かに、どっちも誰でも極められるような甘いものではないのと同時に、誰にでもチャレンジできる懐が深い表現手法だ。だからこそ、アナログの写真術とデジタル写真術は対立軸にあるのではなく、連続し、入り混じった同一軸にあるものなのだ。
僕は、フィルムで撮った写真を自宅の洗面所でアナログな道具や「勘」をめいっぱい使って自家現像するが、出力は20世紀のデジタル機器であるフィルムスキャナーで、編集は最新の写真編集ソフトで行う。反対に、デジタルカメラにアナログの光学フィルターを装着して、デジタル暗室では出せない効果を狙いつつ、画像編集ソフトで微調整したりもする。僕なんかよりもずっと力のあるベテランなら、もっと高レベルでデジタルとアナログを融合させているであろう。いや、「融合」ですらなく、道を極めている人ほど同じ地平で捉えているはずだ。
そんなわけで、前回の記事(下記リンク)からリニューアルしたストリート・スナップの投稿は、今後もカラーはデジタル、白黒はフィルム写真で埋められていくことになるだろう。
今はまだその境地に達していないが、白黒とカラーの境界も僕の中ではなくなるだろう。そして、街角スナップだ、風景だ、ポートレートだという定形も、意味をなさなくなる。写真芸術の行末は、そんなふうになっていくと思うのだ。