【21st Century Snapshotman】高輪 徘徊とセンチメンタリズム 2018年1月30日
2018年 06月 13日
日本はカメラ大国だが、写真大国かというと疑問だ。確かに作品作りとして真剣に写真に取り組んでいる人は多い。かなりの割合でいるであろう興味の大半が機材に集中している「カメラオタク」な人たちを差し引いても、写真人口そのものは世界的に見ても多いと思う。しかし、その大半は、簡単に分類できてしまう3パターンに収まってしまうと僕は思っている。要は、底が浅い。
①昭和ジャンル系・・・「風景」「鉄道」「ポートレート」など、昭和テイストなフォトコンテストの「〇〇部門」に当てはまるような写真。これらには明確なジャンル分けとレッスンプロたちが掲げる最大公約数的な「正解」があって、作品づくりと発表は答え合わせのような形で行われる。
②キラキラ系・・・①のデジタルネイティブ版。①を古臭いとバカにしつつ、実は同じようなスタイルで現代の最大公約数にウケる意匠で撮っている。彩度高め、ピント浅め、玉ボケがきれい。「正解」あり。プロの商業写真にもこれが多い。
③中二病系・・・アーティスト志向の強い人たちが撮る写真。学生写真全盛の70〜90年代に学生だった40〜50代くらいに多いか。この中にはオリジナルで勝負できる本物の写真家が含まれるが、大半は「どこかで見たような」表面的な表現に終始する。暗いトーンのイメージが多いので一見作品に深い意味がありそうだが、それっぽいことを器用にファッション感覚でなぞっていると言った方が実態に近いだろう。実践の積み重ねと哲学が圧倒的に足りていない。
今回は、寒い夕刻に寂寞感を伴いつつ、都心の少し外れを歩いた。そのせいか、③っぽい心象風景的な写真が多くなった。
そこまで言っておいてじゃあお前の作品はなんだ、という話になるが、僕は①②③そのものを否定しているわけではない。写真に真剣に取り組んでいる人は、最初に①的な基礎を学ぶか、③を進めているうちに壁にぶつかって①に立ち戻る期間が必ずあるはずだ。僕は後者で、写真を始めて30年たった今も、これまで撮ってこなかった風景などのジャンルについては、あらためて基礎の「正解」をおさらいする所から勉強している。②についても、現役で商業媒体にも作品を発表している以上、「ウケる写真」からは逃れられないし、今のこの時代に自分のトーンを確立する前段階として避けて通れない道だ。③は、まさにアマチュア時代の自分のことである。
ただ、大半のプロ含む写真愛好家がそこに分類されてしまう日本の現状を底が浅いと言ってはいる。①②③は、あくまで通過点に過ぎず、物事の本質を突いた深い写真はその先にある。
僕は不器用なので、イングランドサッカーのような直線的な表現しかできない。しかし、①②③を踏まえた④に到達している自信はある。精一杯謙遜しても、④から先に向かう強い意思を持って写真を撮っていると断言できる。写真は、一生かかってもゴールが見えないほど奥が深いのだから当たり前だ。
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