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黙読ができない

「写像的空間」というブログタイトルにはそぐわないが、文章について書き散らしたい。本ブログの更新履歴を見ていると、3月以降、たった「3」。写真を使ってビジュアルを入れていくと、どうしてもエネルギーを使う。自分の場合、文章なら「書き散らす」ことができても、写真は「見せ散らす」ことができない。それに、少し飢えを凌ぐための仕事が立てこんでくると、そっちだけで疲弊して更新が止まってしまう。だから、田代島レポートやカメラの話など積み残しているビジュアル優先の話題は多いけれど、まず、文章だけで済むことを先に消化したい。

僕は一応「書く」ことも仕事にしているのだが、自分の文章力にまったく自信がない。書くことのみならず、とりわけ「読む」のが苦手である。言語能力が非常に中途半端なのだ。日本語の本をやっと読めるようになった時にカナダにいたため、日本語の基礎ができていないまま、学校で習う言語と生活言語が英語になった。だから、いまだに日本語の基礎がグラグラしている、というのが第三者的に自分を見つめた時に思い当たるもっともらしい理由である。

最初の自覚的読書体験と言えば、幼稚園生だったカナダ時代の初期に、『三冠王・王貞治物語』という学習漫画的な本を、「読んだ」ことだ。生まれて初めて、本というものを最初から最後まで自分で読んだ。親の読み聞かせではなく、誰もいない部屋で一人で読み通したのである。「カキーン!」「パワーン(新幹線が走る音)」などという擬音まで一字一字声に出して「読んだ」ので、正確には読んだというより、朗読したということになろうか。とにかく、何の前触れもなく、いきなり読めた。「読んだよ」と自慢したら、親がひどく驚き、喜んでいたのを思い出す。

巨人は今も昔も大嫌いだが、王選手は尊敬している。が、これが初めての読書体験になったのは、どうしても王さんの伝記が読みたかったからではない。日本語の本というものがその時、父の『文藝春秋』以外に、『三冠王・王貞治物語」しかなかったからだ(日本人が比較的多いバンクーバーやトロントではなく、オタワの、それも1970年代の話である)。そして、僕はピンク・レディーマニアなのだが、『サウスポー』を聞くととりわけコーフンするのも、メジャーリーグよりもプロ野球が好きなのも、読書と音楽と野球の原体験が「王さん」でつながっているからかもしれない。

が、それはどうでもいい。ともかく、『三冠王・王貞治物語』以降の小学校高学年までは、おそらく同世代の子供よりも日本語の本を読んでいない。もちろん、英語の本にしても英語を母語にする人たちに比べれば全然読んでいないだろう。そして、自分の読書力は、日本語の基礎がユルイのと、大人になってから英語の復習をしていないために、非常におかしなことになっている。

非常に驚かれるというか、なかなか信じてもらえない、意味が分かってもらえないと思うのだが、実は僕はいまだにちゃんと「黙読」いや「目読」ができていないと思うのだ。もちろん、小さな子供のようにいちいち声に出して本を読んでいるのではない。しかし、目で「活字を追う」のではなく、「頭の中で声に出して読んでいる」のだ。だから、非常に読むのが遅い。漫画ですら、遅い。いや、漫画だと余計に、一般の人よりも時間がかかる。何しろ、1コマ1コマ順番に、擬音や背景の看板などを含めて全部「声に出して」読んでいるのだ。

例えば、『北斗の拳』の出だし。「199X年世界は核の炎に包まれた」「海は枯れ地は裂け てんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてん」「あらゆる生命体が絶滅したかにみえた てんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてんてん」「ギギ・!」「だが てんてんてん」「ドオオーン」「人類は死滅していなかった!!」「Z-666」「Z 」「Z 」「Z 」「Z 」「Z 」「 」「Z 」「ゴゴゴてんてん」「二イ てんてん」「バッ」「ドドドオッ」「イヤッホーッ!!」「ホホホーッ!!」「ズドド」「!!」「ド」ーー。

このように、ナレーションもセリフも擬音も全部頭の中で「音」として響く。ちなみに、「Z-666」とか「Z」は、モヒカン雑魚のチンピラ共のコメカミに刻まれた文字である。そいう擬音ですらない「文字」も愚直に“音読”している。ついでに、絵も隅から隅までつぶさに見ている。これはもはや読書ではないし、漫画を見るという行為からもかけ離れていると思う。

ところが、「書く」ということに関しては適齢期に割にしっかりと習ってきたし、大人になってからも勉強の機会が一般よりも多かった。だから、真面目に書けば、それなりな文章は書けるという自負はある(逆に言えば、今のように流して書いている時は無茶苦茶な文になる。写真は流せないが文章は真面目モードとテキトーモードを使い分けている。これもまた不思議だ)。ただし、句読点の打ち方は変だと言われたり編集者に直されたりする。これは、文法や黙読した時の「見やすさ」を基準に打っているのではなく、自分が読み返した時、つまり頭の中で音を聞いている時のリズムの良さを基準にしているからだろう。目で字を追えないのだから、文章の「見やすさ」などは僕には分からないのだ。

そんな自分が今、人の文章を添削したり、書いた経験が少ない人に書き方を教えたりということをしている。写真というビジュアルのことを編集者的な立場で伝えたり教えたりというのは非常に難しい。それに比べれば、文章については言葉で教えられるので楽だ。少なくとも一般論ではそうであろう。しかし、僕にとっては文章は「音」でもあるので、一般論以上のことはうまく伝えられず、もどかしい思いをしてる。僕が人に文章や読書の話を伝えるには、ピアノやバイオリンの先生のような素養も必要なのかもしれない。あ、それ以前に僕のような音読人間が文章に携わるのは間違っているのか?

ただ、人の原稿について言えば、最近自分の所に集まってくる原稿の問題は、文章力がどうのというレベルとは違うものだ。取材したことに対する「評価」や「考察」の問題だ。自分の体験等に照らし合わせて「考察」することで、初めて作家性のある面白い文章になると思うのだが、その前段階、つまり物事をいったん公平に、そして客観的にとらえるということが出来る若い人が少ない。少なくとも自分の周りには、「先輩」と言える世代にしかいないのです。これは非常に困ったことだ。ネット世代の方が色々な角度からの情報に触れる機会が多い分、現実に対するリテラシーがあると思うのだが、実に不思議である。が、これはまた別の次元に発展していきそうな話題なので、次の機会に書き散らそう。

by hoq2 | 2011-06-20 03:52 | 日記 | Trackback | Comments(0)