【『WAN』連載】 「絆」 第8回/イタリアン・グレーハウンド「喜びと楽しみを共有するふたりの世界」

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以前、このブログで犬雑誌の『WAN』(隔月刊)で新連載を始めると告知させていただきました(『WAN』 新連載「絆」)。その号の特集犬種と飼い主さんの絆の物語です。同誌では3本目の連載になります。第1回が2012年5月号。最新号の2013年7月号は8回目で、イタリアン・グレーハウンドの特集です。

今回ご登場いただいたのは、第1回の川原志津香さんと同じく国際経験豊富な女性。今年3歳になったロンくん(オス)と暮らす小林恵さんは、アメリカやヨーロッパに留学した後、マーシャル諸島共和国に長年暮らし、現在は東京のEU代表部で働く国際派のキャリアウーマンです。

小林さんはロンとオビディエンス、ディスク、コーシングの大会に積極的に参加しています。実を言うと、僕はこうした競技やドッグショーに参加する一部の人たちにはあまりいい印象を持っていません。「勝つために犬を替えた」「すぐ骨折する。ありゃ駄目だ」というような言葉を面と向かって聞いたことが少なからずあります。犬を自分の名誉のための道具にしているような人も中にはいるのだと私は感じています。もちろん、こうした競技は犬も人一倍楽しんでいることが多いので、それ自体は素晴らしいものだと思います。しかし、人間の欲が上回ってしまうのは悲劇です。

その点、小林さんの場合は目的がしっかりしています。ロンが楽しめることを探した結果行き着いたのがディスクでした。その後、絆をより深めればロンはもっと楽しくなり、自分もそれを共有できるとオビディエンスを始めたのです。そして、コーシング大会に参加するようになった理由が特に素晴らしい。

「サイトハウンドの本能を発揮して思い切り走ることのできる機会を作ってあげたい」

小林さんは、常に犬の目線に立ってふたりの人生を考えています。「ベタベタしているから信頼関係があるということではないと思います。なついてくれるのは嬉しいですが、自分に何かあって人に貰われたとしても、誰にでも好かれる犬になってほしい。そして、走ったり遊んだり、色々なものの臭いをかいだり、犬として楽しんで生きてほしい。その中で一緒にできることを見つけながら、喜びを共有したいと思っています」。僕はこの言葉にすごく共感し、感銘を受けました。


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小林さんのこの視点は、人と犬が対等であるという認識が前提になっていると思います。生物としての力関係で言えば人間は地球上で最も強い存在ですから、平等ではないかもしれません。しかし、強い者であろうと弱い者であろうと、万物は対等である。私はそう思います。海外経験が豊富な小林さんのことですから、そういうことが意識せずとも自然に身についているのではないでしょうか。僕も15歳まで日本と海外を行ったり来たりしていましたから、差別を受けたり差別をしてしまったりという経験があります。その悲しみや後悔の念などから学ぶことは多く、違いを超えた対等な関係というものを理解しているつもりです。

「犬が好きな人には悪い人はいない」と言いますが、小林さんとロンくんのような関係が築けているのならば、その通りだと思います。だって、人と犬、「種」が違う者同士が対等なんですよ。同じ人間同士でさえ、やれ差別だ、やれ平等だとギクシャクした社会です。対等であることと平等であることは違います。そこを消化しきれないまま突き進んでしまうと、差別や逆差別が生まれるのだと私は思います。

男と女、日本人と外国人、健常者と障害者(あえて障碍者・障がい者とは書きません)、人と動物、雇用主と雇われ人、金持ちと貧乏人。違うのが当たり前です。そして、自然の摂理や人類史の積み重ねの中で各々の力関係には差があります。宇宙は平等ではないということを淡々とした事実として受け入れなければいけません。平等が実現するのは、自分が神になった時のみです。それを踏まえたうえで、万物は対等であるとせめて過半数の人が実感できていれば、色々な悲しみや怒りがなくなっていくのではないでしょうか。


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『WAN』7月号は好評発売中です。イタグレ好きな人、小林さんとロンくんのことをもっと知りたい人は是非、手にとってみてください。




       

by hoq2 | 2013-06-17 01:43 | 写真(Dog Snapshot) | Trackback | Comments(0)

『WAN』 新連載「絆」

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発売中の犬雑誌『WAN』2012年5月号で、新連載を始めました。「絆」というタイトルで、毎号特集犬種の飼い主さんと犬を結ぶ絆に切り込んでいく見開きのフォトエッセイです。今回は、古くからの知人でしつけインストラクターの川原志津香さんとウェルシュ・コーギーのシャーリのお話です。

今巷にあふれている「絆」という言葉は、典型的なマスコミ主導の流行語です。食傷気味な方も多いと思います。私も聞き飽きました。物事が流行としてマスコミに乗ってしまうと、表面的な響きや見た目だけがひとり歩きして途端に陳腐化してしまいます。ですが、もともと良いものだったり深みのある言葉だったりするから流行るわけで、「流行っているからくだらない」というのは中学生的な早合点と言わざるを得ません。『絆』という言葉も震災後にポッと湧いてきたものではなく、全てを失った後、拠り所として残った希望への萌芽として自然発生的に見直された言葉だったはずです。

今、日本は戦後の価値観を見直すターニングポイントにあります。本質的な考え方、生き方を変えなければこの国は精神的にも文化的にも経済的にもダメになっていくでしょう。新たな創造の前には破壊があるように、既存の価値観やシステムをリセットした時に、最初に築きあげる全ての基本、あるいはここだけは破壊しないで残しておくという社会の生命線が「絆」なのかもしれません。

そういうとても大事かも知れない言葉を連呼しすぎて軽くしてしまったマスコミの罪は重い。私もその片隅にいる者として、何か責任を取らなければいけない。自分が出した答えは「これ以上絆を言わない」ではなく、それと正面から向きあうことでした。自分に発言の場がある分野の一つは「犬」です。いわゆる有名人とはほど遠いとても小さな発言力ですが、地味な人間の地味な発言でも積み重ねれば少しは山が動くかもしれない。いや、動かなくてもいいし社会にとって無意味でも大事なことに向きあうことは必要です。だから、誰になんと言われようと、僕はこの「絆」というタイトルには自信を持っています。

川原志津香さんは、まさに大事なことに正面から向き合うことから逃げない芯の強い人です。シャーリとの絆も過去に悲しい別れ方をした犬たちへの贖罪の意識や感謝の気持ちと向きあった結果、揺るぎないものになったのだと思います。その具体的なお話に興味のある方は、ぜひ雑誌を手にとってみてください。宣伝になってしまいますが、手軽に入手できる電子版もあります。一冊丸々コーギー特集ですので、私の記事とは関係なく、コーギーの飼い主さん全般にもお勧めです。

『WAN』は、毎回一犬種をフィーチャーした形で隔月の発行です。月刊の総合誌だった時代から『Dogsnapshot 』(2006〜2009)、『街+犬のグラビア』(2009〜2011)と連載を持たせていただいています。書店売りの犬の雑誌が減っていく中、犬メディアのターニングポイントに微力ながら貢献できるよう頑張ります。次号の特集犬種はチワワです。これまであまり接点のない犬種ですので、その「絆」のストーリーを取材するのが今から楽しみです。




by hoq2 | 2012-04-24 00:32 | 写真(Dog Snapshot) | Trackback | Comments(0)

【Dogsnapshot】尻

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2011・6月、長野県茅野市 Sony NEX3

このDogsnapshotシリーズでは、過去に月刊『WAN』で発表した作品をアップしてきましたが、今回は久々の新作です。



思えば「尻」というものを意識したのは小学校4年くらいの頃だろうか。「女は尻がでかい」ということに、ある日突然気がついた。尻というと下品なものだと思っていたので、清潔できれいで美しく、しとやかであるはずの女子のその尻がでかいということが、違和感満載であった。

ともかく、女子の体のバランスの中心は、尻である。医学的・物理学的にそうであるか否かは関係ない。そう見えるからそうなのだ。犬だって同じだ。少なくともうちのフレンチ・ブルドッグのマメ(メス・8歳)は、あらゆる動きが尻中心だ。伸びをする時、尻をクイッと突き上げる。歩くときはいわゆるモンロー・ウォークのようにプリプリする。お座りをしている様子もそこはかとなくコーラの瓶のような形になっている。

誤解を解くために野暮な説明をさせてもらえば、マメの尻が人間の女性のように実際に豊かなわけではない。動きとか姿勢の取り方が、なんとも「尻中心」なので、僕にはそう見える、という話である。それはともかく、尻、特に犬のそれはオスであってもかわいい。それは良いものだ。仕事で犬の写真を撮るとき、なかなか尻というものは陽の目を見ない。だから、好きに撮って発表できる時は、ここぞとばかりに堂々と尻の写真を載せるのだ。

by hoq2 | 2011-07-06 00:19 | 写真(Dog Snapshot) | Trackback | Comments(0)

【Dog Snapshot 11】ストリートスナップ犬

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ストリートスナップ犬
我が家には2匹のフレンチブルドッグがいるが、オスのゴースケの方に、ストリートスナップ犬をやってもらうことがある。街や公園を歩き回ってスナップ写真を撮る際の、水先案内人と言えばいいだろうか。とにかく行きたい方に歩いてくれればいいという簡単な仕事だ。

なぜこういうことを始めたかというと、僕はプライベートで東京を中心にストリートスナップを撮っているが、どこに向かって歩いたらいいか迷う事が多いからだ。どこで何を撮りたい、というのがはっきりしているわけではなく、むしろ偶然出会った風景や通行人、物体を撮ることを信条にしている。そういう一期一会の情景を撮りたいので、撮影地を選ぶとか、狙いを持って撮影に臨むとか、恣意的な要素はなるべく排除したい。その方が写真に臨場感とリアル感が出ると考えている。

だから、撮影のスタート地点をたとえば「浅草」と決めても、そこから先はあまり深く考えないで進む。寅さんふうに言えば「気の向くままに風まかせよ」となるのだろうが、僕の場合、どうしてもスケベ心が出て、面白い写真が撮れそうな方向へ、意識的に歩いてしまうことも多い。

そこで葛藤が生まれるわけだが、ある時から「風まかせ」ならぬ「犬まかせ」にしたらどうか、と考えるようになった。都合の良いことに、ゴースケは散歩の時「行き先」にこだわる犬である。隅田川沿いのベンチだとか、秋葉原駅東口の新幹線が見えるロータリーだとか、非常に具体的な場所を目指して歩く。よく知らない場所に行ってもおおまかな方向は決めて歩く。その際、撮影の支障にならない程度に適度に引っ張って先を歩いてくれる。だから、ゴースケ任せに進めば彼の中では行き先はっきりしているが、僕の意思は反映されない。つまり、撮影コースに関しては、恣意性がかなり排除されるわけだ。これは、行き先へのこだわりがないゴースケの妹分のマメの方には期待できない仕事である。

手始めに、久しぶりにハッセルブラッドを取り出し、肩掛けリードで両手を空けてゴースケと自分をつなぎ、以前一緒に住んでいた浅草周辺と自宅近くの水元公園へ行ってみた。ゴースケに導かれるままに進むと、いくつかのシャッターチャンスに出会うことができた。写真を撮られた人も、僕一人だと嫌な顔をされることもあるが、犬が一緒だと微笑んでくれる。まずは、思惑通りである。

首からライカを下げているカメラマン犬はアメリカにいるらしいが、僕らのような共同作業は珍しいかもしれない。家庭犬のしつけのセオリーから外れたことをしていると叱られそうだが、好きな写真で一緒に“仕事”ができることが素直に嬉しい。

『WAN』2007 4月号掲載

by hoq2 | 2011-02-17 17:48 | 写真(Dog Snapshot) | Trackback | Comments(0)

【Dog Snapshot 10】原子心母主義

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原子心母主義

『原子心母』というのは、ピンク・フロイド(昔のイギリスのプログレッシブ・ロック・バンド)の曲である。原題の”Atom Heart Mother”のまんま直訳だが、僕はこの邦題の方が好きだ。LPレコードの片面全部で1曲というこの長いインストゥルメンタル曲は、日本でも1971年に箱根の野外コンサートで演奏され、当時はものすごい話題になったらしいのだが、僕は生まれたばかりだったのでよく知らない。

この曲に出会ったのは、小学生の頃だったと思う。曲の中で効果音的に使われているバイクの爆音と共に、シンナー臭い団地の子供部屋を思い出す(誤解を解くために弁解すると、プラモデルに色を塗る時に、部屋がシンナー臭くなるのです)。部屋を共用していた4つ上の兄がよくかけていたのだろう。本格的にハマったのは自分の意思でこの曲を聴き始めた高校生の時だった。オーケストラとバンドの演奏が融合した、現代音楽の一種と言っておこう。タイトルの影響もあるが、母体の神秘を原子レベルで理系的かつ神秘論的に連想させられる、前衛的な曲だ。

それはさておき、曲そのもの以上に影響を受けたのがレコードジャケットだった。乳が張った乳牛のホルスタインが一頭、こっちを向いているシンプルな写真だが、これがいい。中面の、ホルスタインが散らばる牧場を俯瞰した粒子の荒い白黒写真も印象的だった。どちらもなんてことはない写真かもしれないが、ジャケットとして、曲のイメージそのままの素晴らしいモダンアート作品だと思っている。

とにかく、『原子心母』の影響で、ホルスタイン柄と動物の乳房は僕の中では「アート」である。ホルスタイン柄は、フレンチブルドッグ言えばパイド柄。うちの犬がパイドなのも、無意識的に選んでいたのかも知れない。もちろん、この写真も、原子心母主義の僕としてみれば、自動的にシャッターを切ってしまう芸術的瞬間なのである。

『WAN』2007.3月号掲載
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by hoq2 | 2011-01-10 10:56 | 写真(Dog Snapshot) | Trackback | Comments(0)

【Dog Snapshot 9】なんか変でしょ?

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Friedrich-Ludwig-Jahn Stadion,Berlin

なんか変でしょ?


 写真を言葉で説明するのは野暮である。野暮なことは嫌いなので、文章はこれにて終了。いやいや、それではページが埋まらないので何か書いてみよう。
この写真は自分で気に入っている。よく見ると色んな要素があるのがいい。それでいて、それぞれの要素の関連性は説明しがたい。犬がいる。だからいい写真だ。と、自画自賛してみる。何が言いたいかというと、言葉では説明しがたい写真が僕は好きである。そこにロジカルな意味を求めたくない。無理にメッセージを込めるのも避けたい。状況を説明するだけの写真はもっとつまらない。映像には映像の力があり、言葉のそれとは別個だからだ。映像、そして写真は、文章の行間を埋めるようなものが見ていて気持ちがいい。いい写真に対する感想も「なんかいいね」「おもしろいね」「変だね」程度でいい。
一方、客観的な立場で言えば、言葉できれいに説明できる写真はダメな写真かというと、そうではない。それはそれで、求められている写真の役割の一つだ。特に日本の雑誌や新聞では、文章で書かれた記事の内容をより分かりやすくするための写真、印象をより強くする写真が求められることが多い。その場合は、「誰が何をしているのか」「何がどうなっているか」というようなことが分かりやすく読み取れる方がいい。犬の写真の場合は、「かわいい」ということに特化したものも多い。仕事として写真を撮り、人に見てもらう場合は、見る人(読者)の立場に立たなければ、大変失礼なことになってしまう。
ただし、このページはそうした“仕事写真”ではないものも紹介していこうという主旨で始めたので、言葉で説明しにくい行間的な写真も載せていきたいと思っている。だから、この写真についても、どういう状況なのか説明できないこともないけど、無意味なのでしません。

『WAN』2007.2月号掲載

by hoq2 | 2010-12-31 17:47 | 写真(Dog Snapshot) | Trackback | Comments(0)

【Dogsnapshot 8】ガラス越しの犬たちよ

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(左)Tokyo (右上)Berlin (右下)Amsterdam
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Amsterdam

ガラス越しの犬たちよ

街頭スナップを撮るにあたって、僕は「禁じ手」をいくつか決めている。隠し撮りと間違われるので、望遠でコソコソ撮らない(堂々と撮るのはOK)。盗撮と間違われるので、低い位置からのノーファインダー撮影はしない。変質者と間違われるので洗濯物は撮らない、などなど。まあ、これらはあくまで原則なので、ケースバイケースである。

そして、禁じ手とまではいかないが、反則ワザもある。つえをついてゆっくり歩いてくる老人しかり、わらわらと集まってくる東南アジアの子供たちの笑顔しかり。それらはとても撮りやすくて、誰が撮ってもいい写真になるので、反則だ。ついでに、人は怖くて撮れないので野良猫ばかり撮っている路地裏カメラマンも、ちょっとアレだ。

まあ、路地裏を闊歩している野良猫ならまだいい。犬猫スナップで反則中の反則なのは「ガラス越し」である。逃げられる心配がないので、近づいて撮り放題。また、ガラス越しでは臭いも気配も弱まり、気づかれずに自然な表情を撮るのも容易だ。撮られる方にしてみれば、見知らぬ人間はどんどん近づいて来るし、逃げ場はないし、カメラは怖いしで、たまったもんじゃないだろう。

じゃあ、ガラス越しの犬に出会ったら、僕はどうするかと言えば、まず「あーもうしょーがねーなあ」と、つぶやく。そして、ほとんど必ずと言っていいほど撮ってしまう。反則と分かりつつ、迷惑だと分かりつつ、自己嫌悪気味に、しかしいそいそとカメラを構える。きっぱりと「ガラス越しには撮らない」と言えば男らしい。でも、毎度毎度犬たちの眼力に負けて、「あーもうしょーがねーなー」なのである。つまり、上に書いたような批判めいたことは、自分にも返ってくるわけで、「お前が言うな」状態です。

本当にいつもすまん。ガラス越しの犬たちよ。

『WAN』2007.1月号掲載

by hoq2 | 2010-12-22 14:14 | 写真(Dog Snapshot) | Trackback | Comments(2)

【DogSnapshot Vol.7】飼い主は何処に

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 Kreuzberg, Berlin / 2006


飼い主は何処に

写っている人たちの顔立ちからすれば中東あたりのようだが、ベルリンである。ドイツはトルコ系移民の多い国で、ここクロイツベルグ地区はリトル・イスタンブールと化している。

2005年から07年にかけ、プライベートな写真を撮りにベルリンに通っていた。滞在中、東京の雑然とした雰囲気が懐かしくなると、ほのかにアジアの香りがするこの町に行くことにしていた。

さて、犬である。もし、ここが本当にイスタンブールだったら、野良犬が闊歩する見慣れた風景ということになる。だが、ここドイツでは、そもそも野良犬という存在は「あってはならないもの」である。万が一野良犬だったら大変だ。僕が実際にそうしたように、ニヤニヤしながら写真を撮るだけ撮って、保護もせず通報もせずにその場を去ったら、動物愛護法違反か何かで逮捕されるだろう。これが冗談と言い切れないほど、ドイツ人の動物愛護精神と保護システムは日本の常識からすれば完璧に近い。

実はこの風景、イスタンブールの野良犬と同じくらい、ベルリンではありふれている。単なる散歩中の飼い犬だからだ。沖縄の犬のように猫的に一人で散歩しているわけではない。画面の見えない所、おそらく奥の曲がり角の向こうか交差点の先に、飼い主はいる。そして、その飼い主はトルコ人ではなく、ドイツ人であろう。ベルリンの犬の半数近くは市街地でもノーリードで、たいてい飼い主の5mから数10m先をスタスタ歩いて行く。

前回も犬と「広さ」の話を書いたが、なぜそうなるかというと、犬1頭あたりに与えられた空間が日本に比べて広いからだ。それに対応してしつけや服従訓練の仕方も日本とは距離感が異なってくる。日本では飼い主の真横について歩くことが望ましいとされ、その場合、リードは必ず着用(ただしたるんでいる)というのが理想的な散歩スタイルだ。一方、僕が以前見学したドイツの家庭犬しつけ学校では、10mの範囲内でノーリードの犬の行動をコントロールすることを理想としていた。さらに、「犬にも自由を享受する権利がある」ということで、安全な場所で”Lauf!”【Free!=(自由に)走れ!】という号令があれば、ガンガン遠くまで走り回っていい。

日本でヒールしている犬が数少ない優等生であるように、ドイツでも10m以上離れて歩く犬はざらにいる。だからこれは、普通の犬が普通に散歩している、ありふれた光景なのである。結局、飼い主が誰かは分からなかったが。

『WAN』2006.12月号掲載

by hoq2 | 2010-12-13 13:24 | 写真(Dog Snapshot) | Trackback | Comments(0)

Dog Snapshot<6> 北海道は無理だけど

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東京・水元公園/2006


北海道は無理だけど

現在、僕が犬たちと暮らしているのは東京・葛飾区の水元公園の近くだ。その前は台東区に住んでいたから、10kmほど郊外にずれたことになる。埼玉県と目と鼻の先の東京の端っこである。最寄りの駅へは徒歩30分。周囲には畑とビニールハウスが点在する。東京23区内で最も不便な場所の一つである。

数えてみると、海外を含め実に18回引っ越している。今までは親の仕事や自分の仕事の都合だったが、今回の理由の半分は犬の都合である。「仕事さえあれば、犬たちと広い北海道で暮らしたい」というのが本音だが、現実と天秤にかけながら、さまざまな角度から検討した結果、水元に落ち着いた。

我が家には2頭のフレンチ・ブルドッグがいるが、犬を飼い始めてから常々思ってきたのは、犬には広い空間が必要である、ということだ。以前いた下町は、街として成熟していて、僕にとっては最高の場所だった。犬たちも結構気に入っていたと思う反面、ウンコをする小さな草むらすらなかなか見つからないような、狭くて世知辛い場所でもあった。

僕は、犬をしつけるということは、大雑把に言えば「人間の都合に合わせてもらう」ことだと思っている。「人間の都合」とは、おもに他人に迷惑をかけないことで、犬によって人が迷惑を被る度合いは人口密度に比例して高くなっていると思う。また、犬同士のケンカなどのトラブルも、過度に接近遭遇することが原因となることが多い。

犬と飼い主がのびのびと暮らすために、みっちりとしつけをするという考え方もある。否定はしない。だが、犬も人も「いい子すぎる」のはつまらないと思うし、「いい子」になるために、短所と裏表にある長所や個性までスポイルするようなしつけならば、しない方がましだ。飼い主と社会が譲れない部分は躾なければならないが、譲れる部分は譲り、「広さ」で補える部分があるのならば、空間を確保すればいい。

水元公園は23区内最大の公園で、風景はどことなくヨーロッパの広い都市公園に似ている。散歩する犬は多いが、十分な空間があるためか、ガウガウとやりあっている姿はほとんど見ない。うちの犬たちも、5mのフレキシーリードが許す範囲が限界だが、それなりにのびのびと走り回っている。北海道は当分無理そうだが、今のところ君たちに用意できる空間は、ここまでだ。

『WAN』2006.11月号掲載

by hoq2 | 2010-12-05 16:58 | 写真(Dog Snapshot) | Trackback | Comments(0)

Dog Snapshot<5> 番犬

番犬
東京・新橋/ 2006
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 庭先につながれた番犬、というのは日本ではよく見られる光景である。僕も新聞記者時代、事件取材の「地取り」(警察の聞き込みのようなもの)でよく田舎の一軒家を回ったが、こうした犬たちに激しく吠えられたものだ。北海道に住む兄などは、営業で訪れた家の犬にズボンをズタズタにされたこともあったと聞く。

 彼ら、彼女らに求められているのは、ペットとしての従順さや愛嬌ではなく、部外者を撃退する警戒心と勇気である。以前取材した和歌山の山中に暮らす紀州犬の飼い主などは、不審者に噛み付いたことを自慢していたし、庭にいた蛇をくわえてぶん回したと満足げに話していたものだ。

 一方、都会では室内犬が一般化しているが、僕が暮らす東京の下町では、まだ「座敷犬」という日本的な言い方をする人が多い。小学生の頃に通っていた習字教室のヨーキー(ルリちゃん)が、その典型だ。そこはまさに座敷が教室になっていて、奥にどっかと座るおじいさん先生はいつもルリちゃんを抱いていた。生徒には容赦なく厳しい言葉を浴びせるのだが、その舌の根も乾かぬうちに膝の上のルリちゃんには「ル~リルリルリルリ・・・いい子いい子」と、犬なで声。僕の字は今でもとても下手だが、その教室では大人の二面性を学んだものだ。

 欧米人は鎖でつながれた日本式の番犬を見て「虐待だ」と言う。その是非はさておき、このガード下の飲み屋街に鎮座するコリーは、酔っぱらいの目くらいはごまかせるのだろうか?店が客を追っ払っては本末転倒なのだが、来客を歓迎しているようにも見えない、不思議な“番犬”である。

『WAN』2006.10月号掲載

by hoq2 | 2010-11-25 00:39 | 写真(Dog Snapshot) | Trackback | Comments(0)