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『存在と時空』 (1)序章

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NEX3 16mm2.8 絞り優先オートF8 ISO200

学生時代に非凡な写真的才能を「草むら」に発揮していた親友がいる。その「草むら」の写真はひどくつまらない。しかし、撮った彼が僕よりもずっとロマンチストだったから心を打つ。最近分かってきたことは、彼は草むらそのものに存在していたのではなく、「ここにもいたし、そこにもいたし、こことそこの間にもいた」ということだ。カート・ヴォネガット・ジュニアの『タイタンの妖女』(The Sirens of Titan(http://bit.ly/rF32eJ)の表現を借りれば、彼はガサガサと草むらをかき分け、chrono-synclastic infundibulum(時間等曲率漏斗)に入っていった。そこは、あらゆる種類の真実が一つになる場所であり、普遍性そのものである。

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NEX3 16mm2.8 絞り優先オートF5.6 ISO400

芸術を突き詰め過ぎた人間がしばしば「神を見た」と言ってキチガイになるのは、時間等曲率漏斗のような場所が人間には甚だ荷が重いからであろう。中平卓馬が『なぜ、植物図鑑か』(http://amzn.to/bbhSGI)以降、しばらく表舞台から姿を消したのもそうだし、僕もカメラを手にして以来、「向こう側の世界」をファインダー越しに見続けた結果、仕事以外の写真を撮れない時期を長く過ごした。そして、「草むら」の友人は、その頃はいつ自殺してもおかしくない雰囲気を漂わせていた。今、彼が憑き物が落ちたように目の前の世界と明るく向き合っていることと、私的な写真を撮らなくなったことはおおいに関係しているはずだ。

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EOS5DMK2 24-105mm4 1/15・F4 ISO800

中平はブレ・ボケを否定したが、それは60〜70年代的な純真さから来たものであろう。間違って中平的入口のドアを空け、10年間写真が撮れなくなった自分には言う資格があると思う。そんな単純なものではないのだ。僕は写真においては、ロマンチストではない。ちょっと前まで溢れにあふれていたブレ・ボケ連発の「自分大好き」なオンナノコ写真は大嫌いだ。それでも、もやもやっとブレている写真を撮ることもまた、アリなのだ。「自分、自分、自分」と外の世界に視野を広げないタイプのロマンチストには正直、食傷気味である。自己の精神を解き放つ表現をしたいのなら、絵を描いたり音楽を奏でたりした方が良いと思う。しかし、人間的な自己肯定感を帯びたブレやボケは、時にはそれ自体、普遍的なものなのだ。普遍性に貫かれた時間等曲率漏斗的空間には愛や情感も含まれる。

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NEX3 16mm2.8 絞り優先オートF11 ISO200

「そこにある存在」に冷たく向きあうことが、機械の目を通すという過程を必ず経る写真の素直な力だ。僕は、一歩進めて(あるいは曲げて)「そこにある存在」の向こう側に広がる世界を見たい。レンズを通して見ているその場所は、存在や時間があまねく均質に広がる空間である。<僕はここにもいるし、そこにもいるし、そことここの間にもいる>という概念の本質は、普遍性を見る旅に出た者の立ち位置を指している。

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EOS5DMK2 24-105mm4 1/15・F4 ISO800

自分は決して、「私を見て」というタイプのロマンチストではない。だから、僕にもしその技術的才能があったとしても、絵筆は持たないだろう。自分の内にある精神の外部への発散よりも、外部にある「そこにある存在」に向けて自分を解き放ちたいからだ。だから、内面的ロマンに左右されない機械の目を、<疑いながら>信頼している。その疑いと信頼のバランス感覚があれば『植物図鑑』にこだわる必要はないし、神=普遍性を見ても精神を崩壊させなくて済む。自分の情感を含めての「向こう側の世界」を見ている。たとえば、写真に何かをしている人がはっきり写っていたとしても、それそのもを見てシャッターを切ったわけではないし、「この人はこういう状況にあって、どこそこでこういうことをしているのです」ということは、その写真の本質とこれっぽっちも関係がない。もう、被写体は「草むら」でも「街の人の営み」でも、「情感あるブレ」であっても、味噌も糞も一緒である。

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EOS5DMK2 24-105mm4 1/13・F4 ISO800
NEX3 16mm2.8 絞り優先オートF8露出補正-1 ISO200


僕は今、東京と長野を短いスパンで行き来する二重生活を送っている。二つの拠点以外でも、日々違う初めての場所に行くことが多い。物理的に「空間」の認識があやふやになり、「時間」の概念すらその前後関係がどうでもよくなっている。写真も以前のように、街の一定の範囲内を歩いて面で捉える撮り方ではなく、ピンポイントで行った場所で、あっちで1枚、こっちで1枚という撮り方になっている。もっとも、この撮り方に関しては以前から実行しなければいけないと思っていたことだ。インターネット革命以降、ネット空間というもう一つの世界ができ、そこには時空の概念がほとんどない。点の情報が、時間と空間をまたがって淡々と存在しているだけである。この撮り方には、そういう次のステップの入口にさしかかった時代の写像という意味もある。

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NEX3 16mm2.8 1秒・F2.8 ISO800
NEX3 16mm2.8 1/15・F2.8 ISO800
NEX3 16mm2.8 1/60・F2.8 ISO800

『存在と時空』 というシリーズタイトルには、上記のような意味を込めている。まずは、その写真をこのブログで習作的に吐き出していきたいと思う。いつ、どこで撮ったのかということは既に書いたとおり、もはや自分にとって無意味だ。撮影場所などのデータも無意味だ。だから、撮った順ということではなく、ある程度たまったら順不同で点がぼんやりとした面になった時点で出していく。「向こう側の世界」への旅を、次のステップに進めたい。
by hoq2 | 2011-12-12 02:41 | 日記

(フォトジャーナリスト・内村コースケ)写真と犬を愛するフォトジャーナリストによる写真と犬の話。写真は真実の写し鏡ではなく、写像である。だからこそ面白い。


by hoq2
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